新潟日報部長Twitter中傷の論評に見る、悪い謝罪

いわゆる炎上案件である、新潟日報部長Twitter中傷の件。
この人そのものに関してではなく、新潟日報の社内発信の論評が気になりました。

 

記者個人の発信のあり方をもう一度考えたい:上越支社報道部長による中傷問題について|新潟日報モア

 

何故なら直前にGIGAZINEの「謝罪」に関する記事を見ていたからです。

つまり、この論評が「悪い謝罪」の見本のようだった訳ですね。


論評を見て頂くと、そもそも、この論評の書き手と受け手のギャップを埋める事ができていない事が最大の問題であることが分かります。書き手は前提として、本件との距離をとった上で論評しようとしているのですが、いくら言い募っても、炎上直後に会社発信のサイトで「一歩引いた論評」が成立しないので。結果として当事者意識がない文章なので「悪い謝罪」として受け取られてしまう。こういう語り口しかできないのは、報道人の特性かもしれませんね。

GIGAZINEの記事にもありますが「悪い謝罪」は「自らの保全性・モラル・適切性などの『良いイメージ』を維持しようとする」傾向があります。この論評では、失態に対して、どこでも発生する可能性のあることだと相対化する事で事象を軽くみせようとしている点がそれに当たります。

マスコミ事案の場合、日ごろから見え隠れしている「二枚舌」が鮮明になるため、苛烈に炎上する傾向にありますね。相手や立場が変わると同じような論調にならない点が現在のマスコミ不信の一因のような気がします。例えば今回の件、問題を起こした人が逆に所謂ネトウヨだったら、新聞社ではなく政府だったら、新潟日報はジャーナリズムの名のもと糾弾していたんじゃないか、ということです。

ジャーナリズムは「批判精神」という軸にこそ信頼の拠り所が存在する訳で、自身を含めた相手によって「批判精神」の振りかざし方を変えるようであれば、偏向の誹りから逃れられないと思うのです。その意味で、この論評は得意な糾弾って感じではなく腰が引けていて明かに身内への甘さが見えてしまっています。これでは読み手は「ああやっぱり二枚舌」と思っちゃいますよね。

その上で、アプローチとして外方向に目を向けつつ、一般論に展開しているのが良くないです。寧ろ内方向に分析を繰り返し、新潟日報としての特性に合わせた具体的な固有解を得ようとすべきなのですが。リテラシーぐらいで防げたのか。問題に対する失ったものとそれに対してリカバリする覚悟が見えてきません。まあ余所から見ているとマスコミは自分たちで「答え」を導き出すのが苦手ですよね。その苦手なのを、相手を追及するという問題提起して分かってる風を装う恰好でいつもは隠しちゃってますが、いざ当事者になると素地が明らかになってしまいます。いくら「批判精神」があってもクチだけで深く考えてないなら軽く見られちゃいますよね。それも不信の一端かと。

 

せっかく良い題材を得たと思うので、ぜひ「答え」まで導くことをチャレンジして欲しいです。まあ自分が直面したら「自らの保全性・モラル・適切性などの『良いイメージ』を維持しようとする」欲求に負けそうなので。自戒を込めつつ、締めたいと思います。